軍事同盟の強化でなく、対話を通じて東アジアを平和の地域に――万国津梁の精神こそ、沖縄の歩む道です。県議会で論戦し、対話による平和構築を政府に求める意見書を決議しました(自公は反対)。
オスプレイが墜落しても飛行停止をアメリカに要求できない日本でいいのでしょうか。大もとにある日米安保条約を対等・平等の友好条約にすることを提案しているので、アメリカいいなり政治としっかり対決できます。
私は、ウミンチュのまち糸満に生まれ、糸満で育ちました。父親の故徳治は、ウミンチュで、母親ノブエは、お魚センターで鮮魚店を営んでいました。生粋のイトマンチュです。漁師は命がけの仕事で、親父は、嵐などで何回か遭難しましたが、運良く生き延びてきました。そのような漁業のきびしさをみてウミンチュの役に立ちたいとの思いで、糸満高校から、琉球大学にできたばかりの海洋学科に進学しました。大学卒業後、養殖場や学習塾講師を経て、那覇市役所で39年間勤務しました。国民健康保険課を皮切りに、平和交流・男女参画課長などを経て、県都市モノレール対策室、沖縄県後期高齢者医療広域連合組合事務局長で定年退職しました。
私は、両親の代から、日本共産党の故上原亀一郎県議、玉城ノブ子県議を一貫して支持・支援してきました。沖縄戦最後の激戦地となった糸満市。この地から「平和のこころ」をつないできた日本共産党に入党するのはごく自然の流れでした。今回、玉城ノブ子県議が勇退するにあたり、後継要請があり市民の「宝の議席」確保を相当の覚悟で受け止め、バトンタッチを決意しました。
玉城ノブ子さんから、私に後継として要請がきたのは、生前、妻・美代子が私をノブ子さんへ推薦したことが、きっかけでした。 妻は、私が定年退職して数カ月後に病気で旅立ってしましました。これからは、妻の思いをついで、私が市民の宝の議席を守っていきます。
在職中のしごととして、誇りに思うことが2つあります。ひとつは、国民健康保険課で補助金事務を担当したときに、国の交付金算定誤りを発見しました。市長ははじめ、市・県・国会議員の要請行動により、5億円余りの交付金を追加交付させることができました。
2つ目は、男女参画行政を担当していたときに、女性センター職員の後押しを受け、性に関する差別や偏見をなくし、誰もが安心して暮らせる都市をめざした「レインボーなは宣言」を、国内自治体で2番目に発表することができました。いずれも、まわりの職員、議員をはじめ多くの方々の支援・協力のおかげで実現できたものでした。
私は、那覇市職員のとき、故翁長雄志市長のもとで、平和行政、基地問題の担当課長としてお仕えしました。翁長市長は、基地問題などで厳しい表情が多かった印象がありますが、仕事を離れたときは、とても温和な方で、いろんな思いを語っていただきました。
翁長市長の印象に残っているのが、百考は一行にしかず(どんなに考えても、まず行動を起こさなければどうしようもない)でした。いまも肝に銘じるようにしています。
議会ごとに県政だよりを発行し、県政報告会も開催。
県民と県政をつないでいます。
各県議が生活相談所で無料で相談にのっています。
「私のことを思ってくれる人がいるんだ」と、頼りになる相談所です。「困っている人をほおっておかない」のが日本共産党の県議です。
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